月別アーカイブ: 2016年4月

シナジェティクス教育

領域的、部分的な知識ではなく普遍的包括的な知を求めるメタフィジックスは
形而上学と訳されたまま抽象的な思弁哲学に堕落させられ、
現在すべての義務教育課程で完全に除外された。

はじめから非同時的で無尽蔵にデザインされている
子どもの動機と自発性は、社会にとって潜在的な脅威だからである。

ほとんどの教師にとって
シナジェティクス教育は耐えられない驚異である。

子供から専門分化のための教育を否定される時ほど
存在理由を問われる事態はないからだ。

知識が子供を教育しているのではない。
シナジェティクス教育では、子供が自らを教育できる。

そして私は、しはしばシナジェティクスの研究を
子供たちと共に研究している。

自発性に基づく創造性は、高等教育からでは遅すぎるだけではなく
もはや教育不可能に近いが
自発性に基づく創造性によって
子供と私は互いにコミュニケーションできるのである。

モデル言語は、絶えず生成される。

臨床テンセグリティ再考

テンセグリティに関する理論や体系は
単なる歴史と共に過ぎゆく存在に過ぎず
ある種の物質と工学の転移と衰退に過ぎない。

しかしテンセグリティには、
観察から原理が発見されなかった希有な歴史性があり、
これは非体系に属するものであり、臨床テンセグリティの誕生に他ならない。

臨床テンセグリティの圧縮力と張力の相補的な
対比する概念と動的な均衡を補償する最適な工学の歴史こそ、
その真理を保ち続けていくにちがいない。

臨床テンセグリティは、構造の破壊を免れるための
共鳴現象を作動させるために
どのように対称性を導入し
あるいはそれを破壊し不要とするかの真理に関与している。

動的な均衡は有機体生命現象に限らない。

臨床テンセグリティは、つねに超軽量にデザインされ続け、
最終的には、浮遊可能な構造となる。

原理的選択へ

社会的選択とは、人間の知、行動や知覚、感性さえも
そうした全体を拘束し、
自由から逃亡するための選択のことである。

原理的選択の場は
シナジェティクスにある。

人間の自由をさらに拡大する自然の原理において
原理そのものを発見する場である。

幾何学だけではなく、記号のテクノロジーを
そして自己のテクノロジーを
根こそぎ作り替えるのではなく
自らを陳腐化するために。

物質の革命はその後だ。

「経験」するものへ

考える存在としてのシナジェティクスが
感じる存在として私のシナジェティクスと
同じ一つの主観として受容され始めた時がやってきた。

バックミンスター・フラーに初めてシナジェティクスを
プレゼンテーションしたその瞬間から
知性と感性の同一性をより単純化して「経験」するものへの統一が
けっして脅かされることはなかったのである。

いまも変わらない
経験された事実が
主観として受容された後にやってくるそのプロセスは。

経験された事実を秩序化する試みこそが
原理に導かれていくシナジェティクスである。