日別アーカイブ: 2007年4月16日

デザインサイエンス

科学的デザインもデザイン的科学も
デザインサイエンスではない。

デザインサイエンスと
デザイン/サイエンスの間には
雲泥の差がある。

「機能美」と「冗長美」は、デザイン/サイエンスで論じられる
いつものデザイナーの思い上がった目的論である。
彼らの存在意義は、人類の生成する美と繋がるしかない。

個人がテンセグリティ・モデルを制作する意義は、ここにあるだろう。
テンセグリティは、圧縮力と張力という完全に分離可能で非鏡像的な相補性に基づいて
選択された最適な(optimum)あるいは最高度の要素の集合である。
その集合した物資的な統合状態の結果を美しいと感じることは異なった問題である。

数学や科学的手法に依存したからすべて自動的に最適で望ましい状態が
デザインできると考えるのは楽天主義(optimism)である。
最適化には、つねに最終的な観察者の選択(option)の問題が残されている。
実際、この半世紀の間、テンセグリティ圧縮材と張力材の最良の組み合わせは変化し続けている。

自然においては、すべてのテクノロジーは最適化されている。
引力は、宇宙が断面積をゼロに最適化した最高度の張力材である。
その結果、人類には不可視の存在となった。
人間は最適化されたテクノロジーを創り出せない。
これまで以上に最適化を推し進める普遍的な原理を発見するだけである。
(原理を発見するための最適化された思考法は未だ発見されていないことに注目しなければならない。)

しかし一方で、原理と無関係な無数の「最適化」は、つねに流行(=形態form)を作りだしてきた。
すべての計画的陳腐化にはこの「最適化」が利用される。あるいは、価格の最適化としてのオークションに熱中する「楽天」主義者(optimist)である。

戦争は、資本主義における最大の「最適化」である。
バックミンスター・フラーのデザインサイエンスは、永遠のアンチ・ウォーゲームである。
数学や科学的手法に依存しなくても、直観的に理解可能な目的論(=インテグリティ)である。  Y.K

テンセグリティ構造とアンチ・リダンダンシー

リダンダンシー(Redundancy 冗長性)は、語源的に波立ち、あふれでて、流れ帰る状態を意味する。
遊びや余裕、余地を意味し、遂に人間が建造物や機械類・システムの設計において、
緊急事態に備えて付加するモノを意味するようになった。
地震などの緊急事態以外では、過剰なモノでもあるが、
システムの構成要素の一部が故障してもシステムとしての機能がまっとうできるように
余分な構成要素を完全に省略できるデザインはないという前提を支持してきたのは、
われわれの生命の安全を保障するためである。

ところがこの概念では、テンセグリティ構造を説明できない。
過剰なモノはすべて排除した構造でありながら、テンセグリティ構造は、
振動数というきわめて純粋な原理に基づいてデザインされた
真のニューマティック構造である。

これまでのテンセグリティ構造の発見によって、設計者が定義するリダンダンシーは、
計画的陳腐化を擁護する疑似科学理論となった。
ビジネスでは、余計なコストの集積を合法化するための巣窟となった。
なぜなら、航空機産業以外で定義されるリダンダンシーは、
専門家を利用した生命の安全を保障する記号的な疑似テクノロジーで、
隠れた余剰生産を専門家集団に提供できるからである。

リダンダンシーを否定する構造システムと対立しているのは、
もはや古い構造理論ではなく、われわれの暗黒時代から継承されている
輪郭が不明瞭な社会システムそのものである。

テンセグリティ構造は、<でたらめさ>と<冗長度(リダンダンシー)>をあらかじめ未然に回避できる唯一の理論である RBF『コズモグラフィー』(2007年6月近刊)

自然は、 do more with lessによってアンチ・リダンダンシーを選択している。
それこそが、自然に内在する先験的デザインなのである。
自然の冗長美は、われわれの無知から、波立ちあふれでて流れ帰る状態に見えているだけである。  Y.K