考える存在としてのシナジェティクスが
感じる存在として私のシナジェティクスと
同じ一つの主観として受容され始めた時がやってきた。
バックミンスター・フラーに初めてシナジェティクスを
プレゼンテーションしたその瞬間から
知性と感性の同一性をより単純化して「経験」するものへの統一が
けっして脅かされることはなかったのである。
いまも変わらない
経験された事実が
主観として受容された後にやってくるそのプロセスは。
経験された事実を秩序化する試みこそが
原理に導かれていくシナジェティクスである。