デザインサイエンス(バックミンスター・フラー)」カテゴリーアーカイブ

なぜ『クリティカル・パス』と『シナジェティクス』なのか

バックミンスター・フラーは、1983年まで
『クリティカル・パス』と『シナジェティクス』をさらに詳しく研究し、
自らの非凡な才能を投入し、人間が情報収集と問題解決のためにマインドを使う選択肢と、
平和と調和そしてかつて夢見たこともないほど高い
生活水準をこの惑星の全人類にもたらすために人類のテクノロジーの遺産を
応用する選択肢とを理解し、
その実現を促進することを目的とする個人に期待し
可能な限り支援していたと断言できる。

この事実は、アメリカの研究者と共に、
1984年から1988年まで彼のクロノファイルを
当時のカリフォルニアにあったバックミンスター・フラー研究所で
検証した結果である。

最初のハッカー

未来を予測する最善の方法は、
原理を発見し、その応用を発明することだ。
大企業が独占する前に
その効果的なプロトタイプだけを最初に生産する。
そして、次が重要だ。
それ以上はしないことだ。

洞察力のある個人が包括的なプライムデザインに挑戦する。
その結果、従来のシステムは自然に陳腐化できる。
では、それまでのコストは誰が支払うのか。
その計画が漸進的変化に対して純粋で論理的あれば、
社会が支払う。
ただし、官僚が審査する助成金や補助金ではない。

これが、私が知る
バックミンスター・フラーの20世紀の
最初のハッカー的手法である。
彼はこの計画的偶然をプリセッションと定義している。

プリセッションは、人為的な多勢に無勢式社会の対極にある宇宙の原理だ。
大学という専門分化した教育機関ではプリセッションは
拒否されてきたが、シナジェティクスに興味を抱く個人は確実に増えている。
デザインサイエンスとの関連が、これから経験されていく懐胎期に入ったのだ。

最初の量産用プロトタイプ

鳥や魚、そして昆虫たちは、トイレットを必要としない。
すでに一般化されたシステムを無意識に利用する
宇宙船の優れたユーザたちだ。

バックミンスター・フラーの最初の量産プロトタイプは
1938年のトイレットと浴室の合体した
ダイマクション・バスルームの金属製品であった。

画家の最初の絵が将来を潜在的に決定するならば、
彼は明らかに建築家志向ではなかった。
その浴室には、マニボールドが部品として設計されたが、
水洗トイレットではなかったので、外部へは無管であった。
この自律的なエネルギーの循環をデザインした
彼は明らかにプロダクトデザイナー志向ではなかった。
住宅が自律的でなければ、地下資源に依存しなければならないと考えたのは
1927年である。

エネルギーの設計までを許容する職業は、いまでも
発電所やプラント、そしてエンジンの設計者のように
かなり限られている
そして彼らはデザイナーという意識をもっていないだろう。

建築家やプロダクトデザイナーが提案するエコロジーデザインが、
自律的エネルギーの設計に関与しない限り、
住宅のエネルギーは効果的に利用できないだろう。
せいぜい太陽光パネルや壁面の断熱効果を主張する程度だ。

建築家が新築の家に指定する電子化された最新式の高価なトイレは、
常に有管である。それによって、最新式のエコハウスは、
無管ではなくなる。
そして、有用なエネルギーを再循環できるシステムを
デザインできるプロダクトデザイナーは
建築家やユーザの望む美しいトイレットという住宅部品を
自らのデザインによって陳腐化しているだけである。

無管トイレットは、特殊ではない。
大気圏外の宇宙では、外部に依存しない
無管システムでなければ、船内では生存できない。
排泄物は太陽光のように貴重なエネルギーの集合体だ。
無管は一般化されたシステムを意味している。

水洗トイレットへの批判が、全世界的にエコロジー化の対象から外されているのは、
非論理的である。

超包括化主義者

専門化主義とは、自分のできないことを
他の専門家に依頼することである。

総合化主義とは、自分または他者のしたいことを
複数の専門家に依頼することである。

包括化主義とは、宇宙の要求を実現するために
統合化のテクノロジーを自ら発見することである。

専門化主義の専門化が超専門化主義であるように、
総合化主義の総合化が超総合化主義であるように、
包括化主義の包括化は超包括化主義である。

しかし、超包括化主義者はもはや人間ではない。
何もしないですべてを為す(do everything with nothing)
バイオスフィアまたはガイアのような非人格的な存在である。

透明なテンセグリティ・エデンドーム

内部から外部を見るよりも、外部から内部は
より美しく見える。
宇宙飛行士の言葉を信じて暮らしている人類は多い。

直径7m以上の透明なエデンドームに暮らすと
内部から外部はより美しく見える。
空はわれわれの最初のシェルターだ。
どうして外部と呼べようか。

これは私の5年間の経験に基づいている。

プライムデザイナー

「学を為すは日に益す。道を為すは日に損ず。
之を損じてまた損じ、以って為す無きに至る。
為す無くして而も無さざるはなし。 」老子

フラー的メタフィジクスの
do more with less は、
老子的メタフィジクスでは、
do everything with nothing
に極限化される。
老子は、最初のプライムデザイナーだ。

デザインサイエンス

科学的デザインもデザイン的科学も
デザインサイエンスではない。

デザインサイエンスと
デザイン/サイエンスの間には
雲泥の差がある。

「機能美」と「冗長美」は、デザイン/サイエンスで論じられる
いつものデザイナーの思い上がった目的論である。
彼らの存在意義は、人類の生成する美と繋がるしかない。

個人がテンセグリティ・モデルを制作する意義は、ここにあるだろう。
テンセグリティは、圧縮力と張力という完全に分離可能で非鏡像的な相補性に基づいて
選択された最適な(optimum)あるいは最高度の要素の集合である。
その集合した物資的な統合状態の結果を美しいと感じることは異なった問題である。

数学や科学的手法に依存したからすべて自動的に最適で望ましい状態が
デザインできると考えるのは楽天主義(optimism)である。
最適化には、つねに最終的な観察者の選択(option)の問題が残されている。
実際、この半世紀の間、テンセグリティ圧縮材と張力材の最良の組み合わせは変化し続けている。

自然においては、すべてのテクノロジーは最適化されている。
引力は、宇宙が断面積をゼロに最適化した最高度の張力材である。
その結果、人類には不可視の存在となった。
人間は最適化されたテクノロジーを創り出せない。
これまで以上に最適化を推し進める普遍的な原理を発見するだけである。
(原理を発見するための最適化された思考法は未だ発見されていないことに注目しなければならない。)

しかし一方で、原理と無関係な無数の「最適化」は、つねに流行(=形態form)を作りだしてきた。
すべての計画的陳腐化にはこの「最適化」が利用される。あるいは、価格の最適化としてのオークションに熱中する「楽天」主義者(optimist)である。

戦争は、資本主義における最大の「最適化」である。
バックミンスター・フラーのデザインサイエンスは、永遠のアンチ・ウォーゲームである。
数学や科学的手法に依存しなくても、直観的に理解可能な目的論(=インテグリティ)である。  Y.K