シナジェティクス講座」カテゴリーアーカイブ

テンセグリティは誰が発見したか

バックミンスター・フラーはテンセグリティをいつどこで発見したのだろうか。
これまでこの疑問に答える明確な書物はなかった。
みんな情報の受け売りだった。
それゆえに、人々は現在も活動しているケネス・スネルソンの発言を重んじてきた。

構造の歴史において、
もっとも重要で単純なこの事実を
当時ロサンゼルスからサンタバーバラに移転した直後の
バックミンスター・フラー研究所のアーカイブの膨大なクロノファイルに分け入ることで
ついに閲覧し、確認する機会がやってきた。

1986年、バックミンスター・フラー研究所主催の最初のシナジェティクス講義と
ワークショップの講師として滞在していたときのことだ。

スネルソンとの往復書簡にその詳細な記録が記されていた。
1949年、バックミンスター・フラーはブラックマウンテン大学で、
最初の球状テンセグリティモデル(6 struts tensegrity)を制作している。
驚くことにスネルソンの目の前で、
圧縮材が互いに非接触で、不連続なテンセグリティは
地球上で最初の共鳴構造を顕わにした。
しかし、それは若者に純粋な原理に遭遇する苦しみが始まった瞬間だった。

I wish you hadn’t discoverd that.
If you had produced it, I would have acclaimed you ever more.

これはフラーの最初のテンセグリティのモデリングが完成した瞬間に
スネルソンがフラーに投げつけた言葉だ。

彼は歴史的発見を受け入れられなかったほど混乱している。

テンセグリティを作品化しする才能が
テンセグリティを産業化する才能と重なる必要はないが、
原理の単純さのまえにして、晒される芸術家の自惚は度し難い。

他者によるテンセグリティ原理の発見の瞬間に共鳴できなかったスネルソンは
この手紙の公開をもっとも怖れているに違いない。

しかし、スネルソンの言説が
テンセグリティの構造としての有用性を信じていない
超専門分化の代弁者に仕立てられていることの方が深刻だ。

包括的教育プログラム

翻訳は、日本語として美しければ忠実とはいえない。
原文に忠実であれば、美しくない。

そのどちらかで決着がつかなかった場合
原著者に矛盾があるか、
訳者の日本語力に問題があるかのどちらかだったが、
バックミンスター・フラーの翻訳に関しては
新しい不足が発生した。

1970年代、バックミンスター・フラーは
難解だと最初の翻訳者が言い始めた。
シナジェティクスは英語力の問題ではなかった。
シナジェティクスを理解していなかったのがその原因だ。

シナジェティクスを理解するためのmore with lessは
シナジェティクスモデルの再現を経験することだ。

かつてのバックミンスター・フラーの翻訳者たちが
ベクトル平衡体モデルもテンセグリティモデルも
再現していなかった。
主要な概念を忠実に日本語化することは
ほとんど不可能だったに違いない。

実際、過去に出版された2冊の『宇宙船地球号操縦マニュアル』の翻訳においても、
概念の日本語化はまだ未完成であるし、
『テトラスクロール』や『ダイマクションの世界』に至っては
シナジェティクスの概念の翻訳は無残である。
そればかりか、『テトラスクロール』では原文の重要な概念を
意図的に省略して訳されている。

モデル言語力の不足は、決定的なメタフィジックスの欠如を意味している。

モデル言語力の習得を効果的にするプログラムは
包括的教育プログラムである。
つまり、現在の知的産業社会のもっとも弱点とする教育プログラムである。

モデル言語再考ーー『コスモグラフィー』シナジェティクス原論

物事の見方、考え方、そして定式化の方法において、
紀元前25世紀に幾何学的第1種の〈固体(solid)〉という概念を展開した。

しかし、プラトン学派とその系譜が定義した多面体群は、
いずれの線も同一の点を同時に通過しない
非固体的なテンセグリティに変換できる。

結晶は多面体ではない。
結晶でさえその原子群は振動して熱エネルギーをもっている。
固体的かつ非共鳴的な多面体は、間違った定義によって生じる物質感(=リアリティ)である。

テンセグリティが究極の構造の一般化された原理であることが発見された後に、
多面体ではなくテンセグリティによって
構造は、はじめて定義された。

中身の詰まった固体的な多面体を折りたたむことはできないが、
テンセグリティは折りたたむことはできる。
このテクノロジーに到達するために、
数千年間の概念の恐るべき牢獄期を経由しなければならなかった。
この単純で巨大な空洞をいまだに埋めることができない。

固体的かつ非共鳴的な物質観の起源の分析よりも
テンセグリティの懐胎期を加速するのは
シナジェティクス・モデル言語の理解である。

シナジェティクスの唯一の入門書は、

『コスモグラフィー』シナジェティクス原論
バックミンスター・フラー著、梶川泰司 訳 (白揚社 2007)

バックミンスター・フラーの最後の遺作(1983)となった。

2009/12/28

A.男は自分が幸福にしてやれる女しか愛さない。
B.女は自分を幸福にしてくれる男からのみ愛される。

このような単純な鏡像性だけではない。

C.女は自分を幸福にしてくれる男しか愛さない。
D.男は自分を幸福にしてくれる女だけを愛する。

非鏡像的で、反対称的な相補性は
つねに4通りある。

シナジェティクスを学ぶと
こうした相補性はモデル化できる。

相補性のモデル化の可能性の探査とその収穫は、
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドではなく
バックミンスター・フラーに始まる。

シナジェティクスの方法

賢明なデザイナーは、
自然を模倣してきたが、
自然は自らの複製のためにデザイナーを募集しない。

デザインは形態ではない。
デザインは色彩ではない。
デザインは、先験的なデザインを発見する方法だ。

重さのない富は不可視だから。
そして、
発見する方法よりも富の方がつねに多い

シナジェティクス・モジュール理論

小さいなことの積み重ねで予想外のことが起きるのは、
世界が有限な最小限のモジュールで形成可能だからだ。

小さなこととは、例えば、原子核を構成する核子である。
ただし、積み重ねる方法は物質ではない。

すべての核子はこれまで、球状粒子というアナロジーに支えられてきたが、
エネルギーに形態は存在しないという科学的な刷り込みによって、
だれもその形態を見た人はいなかったのである。

シナジェティクス・モジュールは、
バックミンスター・フラーの量子モジュールの発見から
現存するメタフィジックスを樹立してきた。
もはや科学的アナロジーを超えたのである。
類似に基づいて適用する認知過程はリアリティにとっては二次的である。

シナジェティクスは、最新のモジュール理論でもう一つの現実を再現する。
リアリティの根源の一つは、
シナジェティクス・モジュール理論によって書き換えられる。

巨大な素粒子の加速装置ではなく、PCが置ける机上があれば、
この理論の確認には十分な領域である。

インターネットによる包括的なシナジェティクス講座(6ヶ月間)は
2010年から開講予定である。

シナジー原理を視覚的に確認する作業は、
科学理論の理解のなかでもっとも重要な経験の一つになるだろう。

参照文献
「成長する正20面体」梶川泰司 1990
日経サイエンス(サイエンティフィックアメリカン日本版)
『コスモグラフィー(シナジェティクス原論)』バックミンスター・フラー 白揚社 2007

続シナジェティクス講座

『シナジェティクス』のテキストは膨大すぎる。
さらに、シナジェティクス・モデルの再現と翻訳では、
モデル言語の壁がある。

しかし、本に書いてあることを聞いても、
まとめても、なにも変わらないだろう。

重要な思考は書籍ではなく、モデリングと耳学問から始まる。
もっと重要なことは、他者に対して自分の「思考を声にする」ことからである。

何を学ぶだかだけではなくて、
どにようにシナジェティクスを学ぶかも
シナジェティクスである。

独自に思考した人のみに与えられる飛躍によって、
メタフィジックスを通過できるだろう。

新たなシナジェティクス原理の発見と
それに伴う新たな認識を目指して。

シナジェティクス自主講座の翻訳会議は、すでに2年目を迎える。

実験幾何学

エコロジーは科学的概念ではない。
科学という専門分化では
捉えられないほどの包括性を含んでいる。
科学的概念にもっとも最も近い言葉で、
つまり、<シナジー>と言い換えてきた。

神秘といってもよかったが、
共産主義圏と資本主義圏の双方の
錬金術の系譜に属さないアカデミックな科学者たちによって拒まれてきた。

シナジーは有機体生命でなくとも、
合金のように、物質化した結果からのみ、
その予測できない飛躍した機能を比較することができる。

テンセグリティは、
シナジーの飛躍していく生成過程の可視化に成功した
最初の原子核モデルである。

大きさから独立しアナロジーに関与している実験幾何学(=シナジェティクス)は、
実験科学ではなかったので、
いまでもノーベル賞の対象外である。

『クリティカル・パス』再考 経済危機に直面して

この秋に経済危機の実態が具体化する前に
『クリティカル・パス―宇宙船地球号のデザインサイエンス革命 」
(バックミンスター・フラー著 梶川泰司訳、白揚社 2007)
から今回の危機をどう捉えるかに関連した、
30年前のバックミンスター・フラーの思考を敷衍して再び予測してみたい。

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私の著書『宇宙船「地球号」操縦マニュアル』
(EP ダットン、1963年)を読めば、富という現実を
私がどう位置づけているかが理解してもらえるだろう。
富は、(物質や放射という)フィジカルなエネルギーが、
メタフィジカルな目的認識と技術認識(ノウハウ)に結びついてできる。
科学者たちは、宇宙のどんなフィジカルなエネルギーも失われることはないことを
明らかにした。

つまり、宇宙全体として見れば、富を物理的に
構成しているものは減らないのである。
われわれは、目的意識(ノウワット)と技術的知識(ノウハウ)
というメタフィジカルな富を使うごとに、
さらに多くを学ぶことを経験から知っている。
経験は増す一方である。

ゆえに、富を構成するメタフィジカルな部分は増加する一方であり、
したがって統合された富全体もやはり増加の一途をたどることになる。
包括的に情報を与えられるワールドゲームの観点からすると、
お金を使って金儲けをするお金というのは本来、
富の交換手段でしかない方法を学んだ人たちは、
お金から本当の富と同じ不変の働きを完全に切断してしまったことになる。
金に金を生ませる連中と彼らのための経済学者たちは、
この地球は人間の生活を支えていくには根本的に不十分であるという
政治宗教界全体の仮説を、彼らのマネーゲームに利用しているのである。
こうしてお金で利益をあげるのは間違っている。

なぜなら、
(A)新しい合金の単位あたり(1ポンドあたり)の強度はたえず増加し続けており、
(B)飛行機のエンジンの単位あたり(1立方インチ及び1ポンドあたり)
の馬力はたえず上昇し、さらに
(C)新しい化学やエレクトロニクスの1立方インチ及び1ポンドあたりの
機能がたえず上昇し続けているので、われわれにはすでに全般にわたって
かつて誰も経験したことも夢に見たこともなかったような高い生活水準を
つくりだし維持していく能力があり、
しかも10年以内に完全にその能力が実現されるからである。
これは意見でも希望でもなく、技術的に証明可能な事実である。
すでに証明されているテクノロジーと、すでに採掘され精錬され
再循環している物質的な資源だけで実現することができるのである。
それは、すべての人間とそれにつづくすべての世代にとって、
本質的に持続可能な物質的成功をもたらすだろう。
10年以内に達成できるというだけでなく、すべての化石燃料や原子力エネルギー
の使用の段階的かつ恒久的廃止をもたらす。

われわれの技術的戦略からすれば、太陽の放射と重力が日々もたらす
エネルギー収入だけで、すべての人が贅沢に暮らせることに議論の余地はない。
放射として毎分地球に到達する宇宙エネルギーの富の物理的な量は、
すべての人類が1年間に使うエネルギーの総量よりもはるかに多いのである。
ワールドゲームは、真の富で計算すると40億人
(訳注1980年現在の世界人口で)の億万長者が地球上に存在することを
極めて明確に示している。

こうした事実は、勝手にでっちあげた諸権利で操作されているマネーゲームと、
その独占的な信用システムの会計学によって覆い隠され、
一般の人々には知られていない。
富とは、汎宇宙的に作用して天体から放射されてくる一定の自然エネルギーの収入だけを、次のように使う人間の組織化された能力と技術的知識(ノウハウ)にほかならない。

すなわち、かくも多くの人間がこれから迎える長い日々の生活に、
(1)保護、(2)快適さ、(3)滋養をもたらし、
(4)人間にまだ利用されていない知的・審美的能力の蓄えを
さらに発展させる環境を整備し(5)一方ではたえず束縛を取り除き、
(6)また一方では情報を増やしてくれる経験の幅と深さを増大させる
ことによって予想したとおりに対処していく能力とノウハウ、
それこそが富なのである。
全人類の成功は、技術的要求にかなった地球規模の包括的デザイン革命
によってのみ成し遂げられる。

この革命は、そのエネルギー利用効率を誘因として人類が
自発的に人工物を選定すること、社会的経済的に望ましくないものの見方、
習慣、慣例などを惜しみなく放棄し、永遠にそれらを陳腐化させるような人工物を
開発することでなければならない。

『クリティカル・パス』 第6章 ワールドゲーム から引用

日食の表裏

日食のダイヤモン・ドリングは、
月の影から太陽の光が一か所だけから漏れ出て輝く現象である。

そのリング以外は、
気象衛星から見れば、
日食時に地球の球形スクリーンに投影された完全な月の影である。

黒い太陽は、2つの異なった影をもつ。

ダイヤモンド・リング付きの黒い太陽は、月の表面の暗部で、
地球に投影される月の影は、月の裏面の影である。

観察者は日食の表と裏を
同時に観察できない。