シナジェティクス研究所のデザインサイエンス講座は
バックミンスター・フラーのデザインサイエンスの非公開のノウハウや
クリティカル・パス法を知るためではなく
それらを使って実践するための講座である。
デザインサイエンスのクライアントは宇宙である。
目的論なくして、知ることはほとんどないだろう。
シナジェティクス研究所のデザインサイエンス講座は
バックミンスター・フラーのデザインサイエンスの非公開のノウハウや
クリティカル・パス法を知るためではなく
それらを使って実践するための講座である。
デザインサイエンスのクライアントは宇宙である。
目的論なくして、知ることはほとんどないだろう。
テンセグリティ・ワークショップの参加者によるダイアローグは、
どの本にも書かれていないことが多い。
たとえ、『コスモグラフィー シナジェティクス原論』
(バックミンスター・フラー著 梶川泰司訳 白揚社 2007)からでさえ。
経験に基づいて自発的に思考するからだ。
テンセグリティ・ワークショップは
テンセグリティモデルの純粋な再現を通して、思考言語に接近する。
シナジェティクス原論は
テンセグリティモデルから始まる。
風はだれも見れないが
船乗りが風を受け入れるように、
本当のシナジーの概念を直観的に理解できるのは
テンセグリティだけ。
震えていない瞬間はないように
つねに角度と振動数に移り変わる。
本当の構造に名前を教えるのは
テンセグリティモデルだけ。
というメタフィジックスは
テンセグリティ・ワークショップで経験できる。
バックミンスター・フラーでさえ
テンセグリティの定義にしたがった
教育用のテンセグリティモデルを開発できていなかった。
シナジェティクスの講義の前に一人控え室で
テンセグリティモデルを淡々と再構成していたのを思い出す。
講義用のテンセグリティモデルは
モバイラーには軽すぎるが大きすぎたのだ。
彼はそれに関わるには
忙しすぎたが他の誰も教育用のデザインを提案できなかった。
テンセグリティの存在のすべてが純粋だったからだ。
(張力材がゴム材の場合は、エンジニアリングの妥協の産物である。)
シナジェティクス研究所が開発した
球状20面体のテンセグリティキットは
小学生から大人まで、4時間程度で組み立て可能だ。
(所定の長さの張力部材が完成してからの、アセンブルではわずか1時間程度である。)
世界的な不況に対する条件反射で
人々にお金がなくなっている危機感だけが増大している。
これは 20世紀の経済システムによる洗脳の結果である。
つまり、誰かの富は誰かの借金である会計システムは
理解されないようになっている。
人口増加にもかかわらず、
すべての人間に十分なエネルギーと食料がある以上、
経済不況という概念は時代遅れである。
地球惑星のすべてのエネルギーと食料は
太陽エネルギーの変換から形成されているという
再生的宇宙観は、
20世紀に発見された科学的思考である。
科学的思考は不変的(=普遍的)である。
普遍的とは地球規模のグローバル(global)ではなく、
ユニバーサル(universal)である。
デザインサイエンスは
再生的宇宙に適応したユニバーサル(universal)な道具をデザインする。
エコロジーを統合するシナジーの超物質的な概念は
物質的な道具に変換可能である。
“デザインとは、事物の相互関係を主観的かつ客観的に、
知性的、数学的な概念によってのみ秩序化する試みである。
宇宙的規模のすべての発明とデザインは、知性によってのみ成就される。
しかし、それは人間の知性によってでなく、あきらかに
われわれが神と呼ぶ普遍的な宇宙の知的統合性による。”
バックミンスター・フラー
引用
『宇宙エコロジー』(バックミンスター・フラー+梶川泰司 著 美術出版社 2004)
シナジェティクス研究所のシナジェティクス入門講座では、
バックミンスター・フラーのデザインサイエンスと、
「クルマ、構造物・建築、ウエブ、医療システムなど、世の中に存在する
ありとあらゆるデザインの根底にある原理原則を確立・提案し、
理論的に説明する新たな科学」と定義するデザイン・サイエンスとを
数学的、構造的に、そして哲学的に区別することから始まる。
数千年間も不変であった建築の固体的構造ですら、
テンセグリティ原理の発見によって
はじめて真の統合された「構造」が定義されたことを思い出せば、
「世の中に存在するありとあらゆるデザインの根底にある原理原則」のほとんどは
人間がつくるシステムとデフォルトであり、
先験的に存在する宇宙のデザインとは区別できる。
そして、シナジェティクスは
「世の中に存在するありとあらゆるデザインの根底にある原理原則を確立・提案する」
ことには無関心である。
なぜなら、真の原理が
「世の中に存在するありとあらゆるデザインの根底にある原理原則」から導き出された
事例は存在しないからである。