21世紀のエンジニアはテンセグリティーの有効性に同意する。
しかし、彼らは未だに圧縮構成要素を計算する技術だけで
テンセグリティの構造化の可能性を判断している。
引張による構造化には大きさの限度がないという
<張力の完全性>を除外したまま。
新たな水力学的および空気力学的エンジニアによって
テンセグリティーを開発しなければならない。
真の構造を求めると
自律的エンジニアリングを形成するのである。
21世紀のエンジニアはテンセグリティーの有効性に同意する。
しかし、彼らは未だに圧縮構成要素を計算する技術だけで
テンセグリティの構造化の可能性を判断している。
引張による構造化には大きさの限度がないという
<張力の完全性>を除外したまま。
新たな水力学的および空気力学的エンジニアによって
テンセグリティーを開発しなければならない。
真の構造を求めると
自律的エンジニアリングを形成するのである。
プルトニウムは
安定した同位体を持たないから、
人間には
その標準原子量を定められない
唯一の元素である。
自然が
これほどまでのプルトニウムの量を
この惑星上に作らなかったのは
偶然ではなく、
プルトニウムがごく微量になるまで
必然的に待機してきたのならば、
なぜ自然は
DNAの起源を否定し
その複製過程を短時間で奪うことによって
生命現象を破壊する、
すべての政治経済システムを
許すのだろうか。
奪われる前に、
破壊される前に
このシステムを排除することは
エコロジーを支える
あらゆる種族維持のための
自衛である。
非常事態は
リダンダンシーの不足によってではなく
その過剰が物質化したのである。
人間が人間的に生存するための正義と経済的進歩は
必ずしも政治革命の結果ではない。
社会を方向づけるのは、
つねにデザインの革命である。
しかし
アブノックスなモノと情報の増加によって
人間的に生存するための
生活器(シェルター)のデザインが
圧倒的に不足してきたのである。
生存にもっとも必要なデザインが
つねに不足しているからこそ
デザイン革命が社会を方向付ける機会が
非常事態ともに露出したのである。
最近よく聞くようになったこの2つの言葉には
認識の違いよりも概念の違いが大きく横たわっている。
人間が栽培する方法で植物が正常に生育した場合
それらはすべて自然が許した栽培法になるという意味で
どんな栽培法も「自然栽培」になり得る。
元素でさえ
たとえ自然界にない元素を
人間が作り出したとしても
自然が許した範囲内で生成していると考えられるように。
一方、
科学にも自然科学があるように
科学的方法により自然法則を導き出すことで
自然の採用する方法を理解することができる。
したがって、
農学にも「自然農学」があると考えられる。
自然農学から発見された栽培方法によって
人間が栽培する方法を選択した場合を
自然科学的な方法の一つとして
「自然農栽培」と定義できる。
驚くことに人類はこの自然農栽培方法に関する
福岡正信氏の発見から
まだ半世紀しか経過していない。
「自然栽培」は
人間のエコロジーに対する
直観的な価値観によって選ばれた自然な栽培方法に見えるが
「自然農栽培」は
自然がdoing more with lessで選択した栽培方法でもある。
人類最長の学習過程を必要とする
デザインサイエンスにおいて、
芸術家・科学者を自認する
それらデザインサイエンティストは、
40歳代までに数学や科学の分野で
まったく新しい独自な研究を見出せないならば、
最終的に<普遍的な生活器(livingryまたはTrimtab)>
のデザインを生み出すまでには至れないだろう。
そのデザインにおける普遍性こそは
自ら発見した自然の秩序と複数の原理間との
統合性から生まれる
非物質化(=エフェメラリゼーション)の度合いで決定される。
この非物質化への挑戦、
つまり
バックミンスター・フラー死後40年間に渡り
デザインサイエンスの歴史が生んできた
<普遍的な生存のためのTrimtab>は、
総合性を自負する”学際的科学”から
ついに生まれなかった。
彼らの目指す独創性と
人類が生存のために必要とする自然の秩序とが
あまりにも隔たっていたからである。
<独創性(originality)>とは
“新しい場所に置かれた元々の原型”であるとされるが
自然の構造とパターンの前では
それは言い逃れに過ぎない。
<独創性>から
この言い逃れが排除できないのは
この語が、
時系列的なタイムカプセルから
高度な経験の秩序化が非同時的に生まれる瞬間を
まったく表現していないか、
あるいは
表現しようとしない言葉だからだろう。
<独創性(originality)>は
人間のアイデアが
幾度も物質へと変換されていく過程において
デフォルト言語の破壊を好まない社会構造が抱いている、
個人に対するある種の幻想である。
シナジェティクスはこれらの幻想から
絶縁している。
<独創性>から生得的な領域(ドメイン)が奪われて久しい。
シナジェティクスが発見する自然の構造とパターン以上に、
人間の独創性を否定する「秩序」は存在しない。
それゆえに、
シナジェティクスは
自然の構造とパターンに関する思考辞書(thinktionary)の
編集方法 ―『Synergetics vol.1,2』編集で使用された最初のハイパー言語とその形式―をも
発見しているのである。
シナジェティクスの発見は
思考方法の曖昧さを、
回避する以上に破壊しなければ
到達できない原理の探求方法(thinktionary)の発見を伴う。
この20世紀に発見された
モデル言語から始まる探求方法は
しばしば
思考自体に潜む言語の論理的構造でさえ
躊躇なく破壊してしまう。
しかしその破壊された言語は
個人の生得的な文法から
構成されていなかった可能性がある。
なぜなら、
発見された原理からは
自然の論理的な相互関係を理解できるが
この原理の探求方法のほとんどは
非論理的であるからである。
人間の理解とは
遅れてやってくる論理的な事後承諾でしかないのかもしれない。
唯一、
電磁誘導的な直観による理解を除いて。
「すべての細胞はテンセグリティである。」
その細胞が同型の基本構成単位物質を扱う生化学工場から生産されるように
すべてのテンセグリティ・シェルターは
同型モジュール(=最小の構成単位)を扱う
デザインサイエンス工房から生み出される。
その工房はテンセグリティシェルターで覆われ
食糧、エネルギーを
同時的・非同時的に生産するコロニーを形成するための
共同性を備えている。
自然はけっして節約はしない。
エネルギーの再生システムを効果的に維持しているだけである。
同じ季節に再び台風が来るように。
デザインサイエンスは
Doing more with lessのために
エネルギーだけを節約はしない。